2009年07月11日

「愛を読むひと」−言葉がつくる愛と出逢い―

ベストセラー「朗読者」の映画化作品。原作は読んでいない。
 物語は1958年のドイツに始まる。雨の日15歳のマイケルは学校の帰りに急病でとあるアパートの前で、吐き座り込んでしまう。そこに帰宅した女性は、彼を放っておけず助けて、彼を家の近くまで送っていく。病がいえたマイケルは花を持って彼女(ハンナ)のアパートを訪れる。これを機会に二人は関係が出来てしまう。彼女は彼に性の手ほどきをし、彼は彼女に求められるままに本を朗読する。しかし、ハンナは突然アパートから姿を消す。彼女は路面電車の車掌をしているが働きが認められて、事務職に昇進を言い渡されていた。

 時は過ぎマイケルは法科の学生になっている。彼はゼミで、裁判の傍聴に出かける。そこには、ナチの親衛隊だった人物の裁判がおこなわれていた。そこに、かつて看守だったハンナの姿がある。彼女はユダヤ人収容者をアウシュビッツに送った罪で無期懲役を言い渡される。しかし、彼女は無実であった。文盲であるために、手続き書類に署名できなかったのだから。彼女の文盲を証言できる立場にあるが、彼女の文盲を隠したいプライドを考え証言することなく判決が下る。

 この映画にとって、ここまでが序章。ここからこの物語が動き始める。時は過ぎマイケルは弁護士になり結婚し娘が生まれ、そして、娘が幼い頃に離婚をする。離婚し、転居し、蔵書を整理しているときに「子犬を連れた奥さん」という本を見つける。これかつて、ベッドの上でマイケルがハンナに読んでやった本だった。ここから彼は刑務所の彼女に朗読テープを送り始める。何本も何本も、彼女は刑務所で朗読テープと本を元に文字を覚え始める。そして、マイケルに手紙を書いて送る。しかし、マイケルが送るのはテープだけで手紙は一切送らない。ハンナはマイケルの手紙を求めるが、マイケルは一切送らない…。

 原作ではどうも、ナチスの犯した犯罪や、現在も続くナチ狩りについて描かれているようである。しかし、この映画では、二人の恋愛を中心に描かれている。ハンナは文字を持たない。文字を持たないという事はどういうことなのだろうか?一番直接的には、日常生活や仕事上で困ることが出てくるだろう。

 しかし、ハンナにとって文字はそのような存在以上のものであったのだろう。ハンナは自分の思いをかたちとして残すために文字を持ち、自分の思いをマイケルに伝えるために文字を持った。そして、手紙を書く。離れた愛する存在に向けてハンナは手紙を書く。思いを書く。そして自分の名前を署名する。そこにはハンナの人間としての存在を主張し始める。それはハンナにとっては、新しい自分との出会いであり、新しい自分の始まりだったのではないか。文盲である事を隠したために無実の罪で服役させられた彼女にとって、初めて、私は「ハンナ」だと、言えたのではないか。人間としての尊厳を取り戻したといっていいのかもしれない。もし、彼女が文盲でなければナチス親衛隊に入らずともよかったのかもしれないからだ。彼女は、文字を得た喜びと感動を持ってマイケルに手紙を書き続ける。何通も何通も何通も…。

 マイケルにとって、ハンナからの手紙は一体何を意味していたのだろう。朗読を続けた15歳の一夏。そして、テープの朗読を送り続けた日々。それは、文字を読めないハンナとの変わらぬ時間であった。ハンナが文字を読めないから、彼は「朗読者」としてありえたのだ。マイケルとハンナの間には朗読者である事を抜きに考えられなかったのではないか。つまり、ハンナが文字を持つ事は、マイケルの朗読者としての死を意味していたのだ。それゆえに、マイケルは頑なに手紙を書くことを拒否したのではないか。

 皮肉な事にマイケルともっと心を通わせようとハンナが文字を覚えたときに、二人の愛が終わってしまった。私にはどうしてもそう思えるのだ。或いは、新しい愛の形にはならなかった。しかしマイケルは一切その精神の過程を語らない。

 20年の刑期を終えようとするハンナ。出所1週間前ハンナを訪れるマイケル。ハンナの差し出す手に僅かに触れてすぐに手を引込めてしまう。ハンナはマイケルにかつての思いを込めたまなざしを向ける。「朗読が好き」と話すがマイケルは答えない。彼女のまなざしが命を失う。ハンナはそこで二人は終わったのだという事を悟る。おそらく、文字を覚えたことがその引き金だったということも。
 
 彼女は出所当日の朝、刑務所の自分の書棚に並ぶたくさんの厚い本を机の上におきその上に乗り首をつって自殺する。それはまるで、自分を取り戻し、新しい自分にしてくれた文字としての言葉に、復讐するかのように、或いは訣別するかのように。文字を持たないがゆえに生まれた愛が、文字を持つことで終りを告げる。

 ハンナには新しい愛の形が見えていたのだろうか?
 マイケルは新しい愛の形は描けなかったのだろうか?

 重く苦しい映画ではあるが、そこに、幾つかの疑問と、深みがある事は間違いない。
 原作で、確かめたいことが生まれてくる映画だ。


「愛を読むひと」           10点満点で8点
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2009年06月07日

「天使と悪魔] ―宗教と科学は対立しているのか―

原作を読んでから観るか、観てから原作を読むか。原作月の映画を観る時にはよく考えることである。この映画の場合を考えてみると、原作を読まないで、映画だけを観るというのが正解のように思う。しかも見たあとに原作を読む気持ちのない人が観るべきだろう。

映画は原作の中のラングドンのバチカンでの活躍の部分だけを取り出して作られた映画となっている。映画という時間の制約の中でどのように映画を纏め上げるかという点については制作するものはいつも悩むものだろう。それを考えると、ラングドンの活躍の場面だけに絞ったのも仕方のないことなのだろう。その意味でこの映画は原作を読まなくてもまったく支障なく一本の映画としてみることが出来る作品になっている。(しかしながら、この言い回しがけっしてこの作品の褒め言葉になっていないところに辛いものがある。)

この映画だけを観てみると、「ダヴィンチ・コード」で出てきた、ラングドンが再び活躍する映画である。バチカンからの使者が彼を迎えに来る。そして、イルミナティの点対象になった文字を見せて。あとは、新しい教皇を決めるコンクラーベの最中にさらわれた4人の枢機卿を救うことが出来るか、バチカンに仕掛けられた、反物質を見つけて爆発を阻止できるかのアクションもの映画である。

この映画はやはり「ダヴィンチ・コード」があっての映画なのだろう。映画として単体のものとしてみるとやはり物足りなくなる。というよりも単なるアクション映画になってしまっているからせっかくバチカンでロケをした事が勿体無く感じるのだ。

では、その勿体無さとはなんなのだろうか。キリスト教はその教義ゆえに科学的事実とは相容れない部分が多く、その対立は昔から続いているということなのだ。そこで、この映画の宣伝で使われたガリレオの存在が出てくるのだ。つまりガリレオの時代から続く科学と宗教の対立が現代まで、影響を及ぼしているのだとその問題の深さが描かれていない。

それは、結局のところ、ビッグ・バンの問題に行き着く。宗教では神が無から有を生み出した事になっている。しかし科学の世界では無から有を生み出すことは出来ない。しかし、ビッグ・バンの始まる前の状態の一点(特異点)ではどうなのだろう。現代科学では無は有を生み出さないのだから、特異点でも何かがなければならないが、ビッグ・バン以前に何かがあれば、それではビッグ・バンではなくなってしまう。

原作では人工的にビッグバンを作ることで、そこに反物質が生まれそれを捕捉する事に成功する。反物質だから、物質と触れ合うと光となってエネルギーを放出して消えてしまう。もし、反物質を補足できれば、無から有を作り出すことに人間が成功した事になってしまう。ここにいたって、反物質の存在そのものが、宗教と科学の対立を無化する事実であることがこの物語の重要な要素になっている。

そして、何故、カメルレンゴがこの物語の主人公足りうるほどの存在になったのか、なりうるのかがこの映画では描かれていない。原作では多少こじつけ気味の点ではあるが、描かれている。その意味で、この映画、欲を言えばもっと原作から離れてしまえばよかったのかもしれない。

映画は原作とは違うのだが、中途半端な違い方はかえって、よくないのだろう。原作とは名ばかりで完全にスリルとサスペンスのアクション映画にしてしまうか、あるいは、原作に描かれているような宗教と科学の対立と融合をテーマにするほうがよかったのではないだろうか。

原作に描かれていることだが、ビッグ・バンを初めに唱えた科学者は敬虔なクリスチャンの司祭でもあったという事は、原作を読んで始めて知った。この意味で、ビッグ・バンの解明こそが科学と宗教の融合の鍵なのかもしれない。もし対立がなくなればアメリカの学校でのかなりの割合の学校では進化論は教えていないという事実も変わってくるのだろう。

さらに言えば、先の教皇がなくなって、成人にするべきかどうかの検証がなされたそうである。結果聖人ではなくてその下の福者となったという。マザー・テレサも同じく福者だったようだ。だが、この検証をするのは、バチカンの科学者たちだそうだ。聖人になるためには、奇跡を何回以上起こさなくてはならないという規定があるそうである。その奇跡といわれているものが本当に奇跡なのかどうかを決めるのは、バチカンの科学者で、奇跡と呼ばれるものが科学でどうしても解明できなければ、それを、奇跡と認定するのだそうである。

ということは、もう既に宗教と科学は対立しているわけではないのかもしれない。


「天使と悪魔」                10点満点で6点
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2009年05月30日

「佐伯祐三展」−芸術家の純粋な魂のすがた−

芸術家はその自分の命を作品の中に込めて表現していく人の事なのだろう。
佐伯祐三の没後80年に行われた展覧会である。
日本時代から、一回目のフランズ時代、日本に帰国した帰国時代、
そして、二回目のフランス時代の作品の展示であった。

佐伯祐三は一度目のフランス時代にヴラマンクから酷評を受け
どん底に落ち込んで、作風を模索し始める。
この時代の作品がそれほどに酷いものなのだろうか。
私の見たところ、一度目のフランス時代の作品がブラマンクが酷評したほどのものとは思えない。
現在でこそ芸術の世界はどのようなスタイルでもそれを否定されないが
当時、新しい試みがどんどんなされてきた時代には
ヴラマンクが「アカデミック」だとして酷評したのも時代がなせる業なのだろう。

フランスに渡る前の佐伯の作品は
確かに西洋の模倣に感じられた。
展示されていた裸婦はどう見てもボナールのようであったし
風景画にしても、それまでの日本人の画家の作品の延長上にある。

それに比べて、一度目のフランス時代の作品は
作品の存在感、作者の描こうという色々な思いが真っ直ぐに伝わってくる作品群であった。

しかし、フランスから帰国してからの帰国時代の作品群は
本人が日本の風景の中に、まるで美を見出すことが出来なかったかのように
力のない、気のぬけた作品群であった。
これは、よく言われる気候の違いというものかもしれない。
フランスと日本の空気の透明度、湿度の違いというものもあるだろう。
しかし、私は、あの風景は日本の木と紙の文化を描こうとしたのだが、
彼には、日本の木と紙の文化から立ち上がった家屋はどう考えても、貧しく、貧相に見え、描く意欲が湧かなかったのではないかと思えるのだ。
この時代の絵を見ると、どうしても描きたくて描いたとは思えないものだ。
彼の帰国時代の苦悩を手に取るように感じるのも、今回の展覧会特徴であろう。

次に二回目のフランス時代の作品が並べてある。
帰国時代から一転、水を得た魚のように躊躇なく描きすすめられている作品群。
力強さだけでなく、洗練された美しさも持ち始めている。
そして、彼の最も有名な町の看板やポスターが描かれ始めたのもこの時代。
面白いのは、彼に影響を受けた日本の画家たちの作品も展示されていた。
佐伯が描いたのと同じ教会を描いた作品があるが
まさに佐伯の影響を受けたというよりも、信奉していたと思われる作品たちだ。
佐伯ほどの力強さも、勢いも、感じられなかった。
その意味では、影響を受けたというよりは
模倣した作家たちといってもいいのかもしれない。

佐伯はフランスで結核を悪化させ自殺未遂をして
精神病院入院しその後一切の食事を拒否して衰弱死したという。
食事を拒否して彼は何をしたかったのだろう。
緩慢な自殺なのだろうか?
もしかして、彼は自分を透明にすることで
最後の彼の作品の境地に達しようとしたのかもしれない。

かくも芸術家とは自分の命を表現していくものなのだろう。
それにしても、佐伯祐三の作品には彼の悩みや喜びや不安や孤独が如実に表れる。
その意味で、彼の魂は極めて純粋なものなのだろう。
しかし、もしもと考える。
彼がブラマンクに酷評されなかったとしたなら
佐伯の作品はどうなったのだろうか?
表現の世界では、先達や、評論家が若い才能を評価する。
それによって、つぶれていった才能がどれほどあるだろうか。
それでつぶれてしまう才能はその程度のものという言い方も出来るが
果たしてそうなのだろうか?
私はそうは思えない。
だから、もしも、と考えてしまうのだ。

純粋な芸術家の魂に触れるために
その魂の遍歴を感じるために
そして、画家の生命力を感じに行ってみて損のない展覧会であった。

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2009年05月23日

「天使と悪魔」―天使とは何か?悪魔とは何か?― 

 ダン・ブラウンが「ダヴィンチコード」の前に書いた作品。バチカンを舞台に繰り広げられるアクション活劇。ダビンチコードで活躍した、ロバート・ラングドンがまた活躍する。とはいっても、この作品が先であるので、活躍していたといった方が正しい。ダビンチコードでも言われていたことだが、どうも、ラングドンのイメージとトム・ハンクスのイメージが重ならない。映画と原作は別物だと言えばそうなのだが、やっぱり気になってしまう。

 この「天使と悪魔」は元々、アクション映画になるべくして描かれた作品のように思える。ラングドンを運ぶ最新ジェット機、反物質、バチカンでの殺人、それを追うラングドンの推理、そのためにバチカンの教会や建物、美術品を巡る謎解き。反物質の爆発の恐怖。色々な要素が、この作品が映像になったらどうなるだろうかと期待させる。(映画はどうなのだろうか?おそらくアクション活劇になっている事は間違いないと思うが)。

 この作品の題名「天使と悪魔」何が天使で何が悪魔なのだろうか?物質と反物質、宗教と科学、正義と犯罪、色々な事が考えられるが、この作品では、科学と宗教の対立をテーマとして描かれている。古来から宗教はその対立するものを排除してきた。科学もその排除されるものであった。ガリレオの宗教裁判は有名な話である。この作品では虐げられた科学者たちの秘密組織イルミナティがバチカンに現在によみがえって、復讐を企てる。バチカンに仕掛けられた反物質が爆発する前にラングドンがイルミナティの企てをとめることが出来るかがその焦点となる。

 人が生きるということはどういうことなのだろうか?人がこの世界に「存在」しているこということはどういうことなのだろうか?宗教はこの疑問から生まれた。どうしてもわからない自分の存在の疑問に人は神という存在を見出した。しかし、宗教では神という存在は考え探求すべき存在ではなく、信じるべき存在なのだ。

 一方、人間は宗教の他に科学というものも見出した。人は自然現象の中に法則性を見出すことにより、科学を生み出しその方法を発達させてきた。科学は論理や実験で証明された事だけで体系を作り、その範囲内で科学技術を発達させてきた。その力は、人間の寿命を延ばし、生活を便利にし、環境を破壊してきた。しかし、突き詰めて行った先には、科学の力ではどうにもならない、宇宙の始まり、つまり存在の始まりに行き着かざるを得なかった。そのような科学はルパート・シェルドレイクのような科学者を生み出すに至る。かれは、「離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する。」という内容を含む、形態形成場の仮説を提唱し、ある実験で実証を試みた。日本ではある地域で始まったニホンザルの芋洗いの行動が、その地から遠く離れた別のニホンザルの保護区で同じ頃に発現し急速に広まっていくという事実が既に確認されていて、シェルドレイクの仮説が正しいものではないだろうかと考えられてきている。

 また、地球がどうして20度前後の気温を保っていられるのか、ということを考えたとき、それは奇跡に近い。では何故この温度帯に地球はあるのか?それはただの偶然なのだろうか?ある科学者はこの疑問にこう答えている。「地球は誰かに見られたがっている」のだと。いずれにしてもこのような認識を考えざる得ないほどに科学もこの世界の「存在」の疑問に突き当たっているのだ。
 
 この作品の中に描かれている何が天使で何が悪魔なのだろう。宗教と科学、物質と反物質、人間と神、色々なものが考えられる。しかし、よく考えてみると、元々天使であった、最高位の天使ルチフェルが堕天使となり、後に悪魔となったといわれている。全能の神は何ゆえに悪魔の存在を許しているのだろうか?天使が神の使者であるなら、堕天使のルチフェルもまた神の使者であるなら、神は悪魔の存在も許さないということも出来たはずである。しかし、神は悪魔の存在を認めるかのように存在させている。一説には神は光の存在であるがゆえに、影の存在である悪魔がいることで、神が神としての存在を確認できるからだという。世界には影があって初めてその存在が認識できるから。

 こう考えると、天使も悪魔もまた相対的なものであり、いい悪いの存在でないことがわかってくる。宗教と科学も、人間と神も、いい悪いの存在ではなく対立するものではなく、同じものの別の側面なのかもしれない。面白い事に、堕天使の「ルチフェル」という言葉は「明けの明星」の意味もある。もしかしたら、日常悪魔と読んでいるものは、この世界にとって「明けの明星」の別の姿なのかもしれない。
 ダン・ブラウンここまでの価値の相対化を考えていたかどうかはわからないが、天使は何か悪魔は何かを、または、本当に天使なのか?本当に悪魔なのか?と考えながら、読んでみるのも面白いのかもしれない。

「天使と悪魔」 ダン・ブラウン著 
角川文庫 上・中・下  各巻590円


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2009年04月05日

「悼む人」を読む       ―ただ一人のなせる行為の意味―     2009.4.5

本年度直木賞受賞作品。
坂築静人。日本中を歩き回り、そこで亡くなった人の死を記憶して歩く青年。亡くなった人を、この世にただ一人の誰でもない人として永遠に記憶にとどめようとする。その行為を青年は「悼む」という。病院でなくなっていく子ども達の死に接し、さらに、親友の死に接し彼は、人の死を「悼み」始める。

これは、ある青年の生き方の物語である。この世の中にはたくさんの人が、生まれてそして死んで行く。どうして人は死ぬのだろう。それは生まれたからに他ならない。人にはそれぞれ名前がある。名前がある事によって、人は一人一人の存在になっていく。逆に、交通事故死者、癌患者などと集合した名前で呼び出したとたん、そこから一人一人は消えて人間の存在はなくなってしまう。どのように死んでも、その肉親にとっては一人のかけがえのない命なのに。

しかし、そんな他人のことを考えることもない。自分の祖先の名前をどれくらい人は覚えているだろう。私は曾祖父母になると、8人いるはずなのに、まったく名前が出てこない。これは私だけではなく、大方がみな変わらないのではないだろうか。それは、人の死は究極は死んだ個人のものでしかなく、大きく見ても、死者に近しいもののものでしかないから、自分の曾祖父母の名前さえ記憶していないのでしょう。

人は、忘れる事で生きている。忘れながら生きている。そうでなければ生きてはいけないだろう。しかし、静人はそう生きることを拒んで死者を記憶し続け「悼み」つづける。しかし、それはたった一人の行為。だれに同意を求めるのでもなく、共感を求めるのでもなく、ただ自分が正しいと思うことをやっているだけ。いや、正しいかどうかさえ考えてはいない。自分がやりたいからやっている。その意味で彼の行為は宗教の世界で語られる、無償の行為としての「愛」といえるかもしれない。「愛」は見返りも求めない。自分がただ、愛したいから愛する。そういう行為なのだ。しかし、静人の「悼む」対象は、死者であるがゆえに、もっとも純粋にならざる得ないのだが、しかしそれは純粋すぎるゆえに、自分に何らかの決まりごと定めていく事になる。静人もその戒律ともいえる定めを作り、「悼む」ルールを持って旅を続ける。

この物語を人はどのように捉えるのだろう。ただ、こんな人間がいたら面白いだろうなという作り話と読むのだろうか?
それとも、「こんな事現実にはありえないよね」と読むのだろうか?
私たちはよく、たった一人で何が出来るという。私も随分長い間そのように思ってきた。しかし、それは真実ではない。
たった一人の人間が、世の中を変えるという例はこの世にたくさん存在する。

そんな時、私は、水谷修を思い出す。俗に夜回り先生と呼ばれている。
彼はやむにやまれず、夜回りをして、夜の闇から若者たちを救ってきた。だれにも認められず、褒められず。むしろ職場では迷惑がられながら彼は止めることが出来ない。止められなかったのだ。その行為が10年以上にわたり続き彼の行為は社会に認められ始める。それとともに、薬物依存に関しての認識がたかまり。世の中が変わり始めた。

この物語を人のいのちはかけがえのないものだ。いのちは大切にしなくてはいけない、などと道徳的に捉えるべき物語ではないだろう。生きていることも、死んでいることも大差なく、存在の仕方が変わるだけのように私には思える。哲学や宗教の世界の認識はこの問題に結論を出せてはいない。無論科学も同じだ。

では、この物語は何を語っているのだろう。私には、たった一人の生き方。たった一人の行為。やむにやまれず、続けていくたった一人の行為。それが、この世の中を変える力を持っている。人間にはそのような力が一人一人に備わっているという真実を物語っているように思えてならない。作者は戦争や争いでたくさんの人がなくなっていく現実、その現実が念頭にあったという。一人一人のはずの命が、その無名性のために簡単に忘れ去られることに対する疑問が作者にはあったという。

何も求めず、自分のために、やむにやまれずそうせずにはいられない、そんな生き方の持つ力に私はどうしようもなくひかれてしまう。大きな力でなくてもいい、もし、ユングが言うところの集合意識というものがあるのなら、私一人にはなんの力もなくても、そのなかのひとかけらとなって、もっと大きなものに働きかけられるとしたなら、私たちはそれだけで、生きている意味があるのかもしれない。

この人生で何をなしたと思えなくても、成功したといえなくても、ただ平凡に一生を終えたとしても、若くして命を失ったとしても、自ら命を絶ったとしても、全て人は一人一人生きていたことには変わりなく。その魂に刻まれた人の人生のあらゆる記憶はどこかで永遠に残っていくのだろうと思えば、この人生は悪くないのかもしれない。というより、悪くも良くもないのかもしれない。

人の存在とはそういうものなのだ。だからこそ、静人の「悼み」の行為は、無名で忘れ去られるものたちの存在の本当の姿に、光を当てる事によって、人は無名であっても、忘れ去られたものであっても、大きな命の一つとして、生きているんだという事に思い至る道筋の、一つの道標なっているのではないだろうか。


人により、深く色々考えることの出来る、名作というより、秀作であり、問題作が「悼む人」なのだろう。


「悼む人」  著者 天童荒太 文芸春秋  1619円

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2009年03月28日

「おくりびと」 −送ることの本当の意味−

一年以上更新していなかった。
これから少しずつまた更新しようと思います。
最近は映画ブログになってしまったけれど、
色々なことを書いていきたいと思っています。

********************************

モントリオール国際映画祭でグランプリをとって、
封切されてすぐに映画を観た。

解散して無色になったオーケストラのチェロ奏者が
ふるさとに戻り就職活動をする。
罠とも思える、募集広告に惹かれていったのは、葬儀社。
そして、そこで納棺師の職を知る。
家庭に帰ってもそのイメージから仕事の事は語らず
しかし戸惑いながら、その仕事の魅力にはまっていく。
家族にも理解されないず、妊娠した妻は出て行く。
そして、子どもの頃家を出て行った父親の訃報に接する。

葬儀とはなんだろう。
人を見送るとはなんだろう。
そんなことを考えさせられる映画。
私が子どもだった頃、父親が死んだ時は
親族の大人たちが、湯灌をして棺に遺体を納めた記憶がある。
母親の葬儀の時も、
親戚の女性たちで湯灌をして化粧をして棺に納めた。
その頃は、映画に描かれたような、
納棺を専門にする仕事は一般的でなかったのだろう。
しかし、数年前、
義父の葬儀の際は女性の納棺師が映画と全く同じに納棺をした。
それは、見事という言葉以外ないほど見事に
一連の仕事を流れるように行なっていた。
当時は納棺師という言葉は知らなかった。
というよりも、この映画で初めて知ったといっていい。
(原作を読むとこれは作者の造語だそうだ。)

人は必ず死ぬ。
死んだ本人はどのように葬られようが死んだものは関係ない。
見送り方は残された者にとってのものなのだ。
古には、風葬であったり、鳥葬であったり、
遺体を自然に任せる方法があった。
それが、儀式的なものを伴っていくのは宗教の影響なのだろう。
動物は生きたいという欲望も、死にたくないという欲求もないという。
あるのは、死を避ける行動を取るということだけだという。
動物には生と死という認識もないという。
考えてみれば当たり前で、死という言葉があるから死があるのだし
生という言葉があるから、生があるのだから。
だから、言葉による概念を持たない動物には生死の概念がないのは当たり前である。

しかし、人間は生死の概念を持ってしまった。
さらに、天国地獄などの概念も作ってしまった。
そんな時、人は葬儀を生み出していく。
既にネアンデルタール人の時代から葬儀があったという。
ネアンデルタール人の骨の出た穴から、
たくさんの花の花粉が見つかっているという。
少なくとも、ネアンデルタール人は
死んだものに花を手向けたということが類推される。
そこに、生と死の認識、葬儀の萌芽を見る。

「おくりびと」で描かれるのは、その納棺の儀である。
遺体をどのように美しく棺に収めるか。
それが仕事。
日本人は、遺体をことさらいじることなく、できるだけ自然に送る。
それは、日本人の美意識なのだ。
論理的に言うなら、遺体はただの物体のはずなのだが
人はそこにその人の人格を、生前の存在を投影している。
その思いを損なうことなく、納棺していく納棺師。
その仕事は、
一種のタブーを見るような感覚があるのではないだろうか?
納棺師の妻は、彼の仕事を理解できずに「穢らわしい」といわれる。
「穢」の感覚とは、日本人の多くが、
他人の愛用していた箸を出されてもそれを使って食事はしないだろ。
これこそが、穢れの感覚の本質なのだ。
訳もなく嫌うという感覚。
だからこそ、日本では江戸時代に身分制度が出来て、
被差別部落の問題が発生するのだ。

しかし、職業としての納棺師の所作は様式美とともに
一つの表現になっている。
それゆえに、「穢れ」を昇華する力を持つのだろう。
あらゆるものに心を込めてしまう日本人の感覚。
それは、古来日本人は
樹齢何千年の大木はいうに及ばず路傍の花にも、
河原の石にも、小さな虫に至るまで
そこに神を見出してきた。
ましてや、今まで生きていた肉親の遺体に、
特別な思いを持たないものはいない。
その遺体をただの亡骸から、生きていた時の存在の証を与えるのが
納棺師の仕事なのかもしれない。

この感覚が、日本人のみならず、人間みんなに共通していることが
今回のアカデミー賞の受賞で証明されたのではないか?

かくも人間が共通した思いを持つならば
この世界はもっと平和になってもいいのだろう。
残忍な犯罪や、愚かな戦争や、民族の対立など
解消できるのではないだろうか。

深く考えすぎかもしれない。
しかしこの映画「くりびと」はそこまでのことを考えさせるに足る映画である。
最近の映画の中でも傑作といっていい。


「おくりびと」                    10点

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2008年02月03日

「テラビシアにかける橋」−人は深い悲しみに出会ったときにいかに生きるか  こどもだましではない傑作―

この映画の予告編を見ただけでは
児童文学の映画化でああ、きっとファンタジーなんだなと勝手に納得していた。
これは明らかに配給側のミスであった。
この映画の内容は深く秀作、名作、傑作の部類に入る映画であるからだ。

4人姉妹の仲の一人の男の子。
小学校高学年ぐらい。
家が貧しく愛情深いが日々の生活に忙しく追われる両親。
その貧しさゆえに学校ではいじめられる少年。
そこに、転校生の女の子がやってくる。
二人は家が近いために次第に仲良くなり
そして、森に壊れたツリーハウスを見つけ
創作が好きな彼女にいざなわれるように
二人だけの創造の世界を作り出していく。
二人は互いにとってかけがえのない存在になっていく。
しかし、彼女が突然死ぬことにより
彼は深い悲しみに突き落とされる。
人間が本当に悲しい事態に見舞われたときにどうなっていくのか。
その事態を認識することが出来ず
感覚が麻痺していき
魂の一部分が死んでしまう。
彼は何も語らない
でも、日常生活は自動的に過ぎ
身体も自動的に動いていく日常。
でも、彼女はやっぱりいない。

そんな人間の持つ、悲しむという一つの力は
きっと、誰にも備わっているのかもしれないが
彼のように、魂のそこから悲しむことが誰にも出来ることなのだろうか?
そんな思いとともに、観ていて深い悲しみに捉えられる。
お涙頂戴の場面ではなく
深く深く深く悲しみは腹のそこにしみわたってしまう。

原作は読んでいないが
この映画は一つの映画として完結している。
大人も子どももなく
魂の一部をもぎ取られるような悲しみに襲われたとき
ここまで深く傷つき悲しむことがあるのだ。
深く深く深く悲しいのだ。
しかし、その悲しみもまた
乗り越えるすべはあるのだ。

児童文学の映画化ではあるが
子どもよりもむしろ大人が見るべき映画で
大人の方がその悲しみは深いだろう。
傑作である。

配給会社のミスにより
この映画があまり話題になってないようだ。
残念としか言いようがない。

「テラビシアにかける橋」      10点満点中 10点


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2007年12月03日

頭を空っぽにしてみよ―かろうじて及第点のB級映画

ネットの評判がそこそこよくてエクスクロスを見てきた。
そこそこ面白い。
B級映画としてはかろうじて及第点。
鈴木あみの後半の変身ぶりもよかった。
一番は小沢真珠の突き抜け方。
見てわかった、ああ、「トリック」の路線なんだなと。
しかし、私の好みからいうとちょっと中途半端。
「トリック」ほど馬鹿馬鹿しくない。
ホラーというほど怖くない。
ストーリーも困惑するほどいり込んでない。
謎もそれほど深くない。
その意味で、ネットでの評判がよすぎるように思う。
それほど笑えず。
それほど怖くなく。
風刺はほとんどなく。
やっぱり、かろうじて及第点のB級映画なのだと思う。
何かを期待してみるよりも何も期待しないで見るのが一番かもしれない。
疲れた頭を空にして、気分転換のつもりで見るとそれはそれなりにいいのかもしれない。

「エクスクロス」  10点満点で6.5点



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2007年11月18日

「ブレイブ ワン」―道徳と倫理の狭間で…―

ブレイブ ワンを観た。この題名「勇気ある者」なのか「刺客」なのか辞書的にはどちらにも取れる。

公園で婚約者と犬の散歩をしていた二人は殴る蹴るの暴行を受け、入院、婚約者は死亡。彼女は重態。
事件後、このトラウマとの葛藤の中で、偶然不法の拳銃をてにいれる。
また、偶然身を守るために使ってしまうことから彼女は「ブレイブ ワン」になっていく。

前作「フライトプラン」が何ともやりきれないほどの駄作だっただけに、ちょっと心配したが、
葛藤する人物を演じさせたらおそらく最高の女優であろうジョディ・フォスターはその存在感を示した作品となっていた。
暴力によるトラウマ。
偶然とはいえ人を殺すことから、「正義の刺客」になっていく過程の葛藤。

この映画は、「ブレイブワン」という題名を「勇気ある者」と取るか「刺客」ととるかという
彼女の行動から道徳的にこの行動が許されるか許されないかということを描いた映画としてとるなら
つまらないものなのだろう。
なぜなら、人は殺せば殺されるというのが社会のルールとなっているからだ。
報復という手段としての殺人も法律の手段としての死刑も終身刑も命をもって償うことを求めている。

この映画を観て、彼女の報復、正義の裁きがいいか悪いかではなく
「銃」という道具を作ってしまった人間はけっしてそれを使わずにはいられないということ。
それを使わずには終われないのが人間だということを示している。
それは戦争に使う武器しても同じなのである。
原爆も作ったら使わずにはいられない。それが長崎広島の原爆投下だった。
銃もまた同じ。
日本でも銃が合法化されれば多くの人間が持つだろう。
そして、持つことで使うだろう。
結局、いったん法律で認めてしまえば、禁止できなくなるのである。

その意味でこの映画は、人間のもっているどうしようもない宿命を描いたといえるだろう。
またそれによって、翻弄されている人間社会とその個人を描いている。
そんな中にあって「道徳」的であろうとするのか「倫理」的であろうとするのか
その間でゆれる人間の姿を私は観ていた。
それは、定義により「道徳=やってはいけないといわれているからやらない」
         「倫理=やりたくないからやらない」
の違いがあるからだ。
その葛藤する人間の姿は
久しぶりに「羊たちの沈黙」のジョディー・フォスターを彷彿させた。
似たような匂い、存在感、マッチョではないにも拘らず
内に秘めている強さを表現していた。

ラストは映画としては至極まっとうに終わったのだと思う。
正義の裁きに手を染めてからは彼女は「道徳的」ではなかった。
しかし、ラストでは「倫理」さえも破ることで刑事を撃ってしまう。
犯罪は闇に消えても、ここに来て初めて彼女はもう元にもどれなくなってしまったのだ。
元の自分に永遠に戻れなくなってしまったのだと感じる。

「ブレイブワン」            10点満点で8.5点
posted by pikaso at 08:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

『ボーン・アルティメイタム』―息つくひまなく気がついたらラストシーン― 

ジェイソン・ボーンシリーズ第三弾。完結編。
前作で語られなかった場面から始まり、前作のラストシーンへと繋がる。
アメリカに舞い戻ってきたボーンは目的をたすために行動する。
いつもながらのアクション
素早い行動。
かーチェイス。
あっという間にラストシーンまでやってきてしまう。
シリーズものは回を追うごとにだんだんパワーが下がるものだが
このシリーズは違ったようだ。
なんといっても、このシリーズ主人公のボーンが
無口で内省的であるにも拘らず
その内面では生き残るために
ものすごい速さで思考が流れている様子が
その後の激しいアクションに繋がるところが観る者をひきつける。
この作品で明かされるボーンの秘密はそれほど意外ではなかったにしろ
この作品の価値を下げるものではない。
何よりこの映画は卓越したキャラクターであるボーンの存在そのものが一番の価値だ。
ものすごいスピードでこの映画を駆け抜ける時間。
リアリティーのある一つ一つのアクション。
ただ、難を言えば
ラストシーンだけはもう少し何とかならなかったのだろうか?
何らかの驚きや、
期待や安心感や達成感の
いずれかでももう少し感じさせてくれたら文句なかったのだが。
それは贅沢というものだろうか…。

「ボーン・アルティメイタム」         10点満点で9点

posted by pikaso at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする